どこからか、おばあさんが部屋着とスリッパを持ってきてくれた。私はフォーマルを着て、ハイヒールを履いていたので、うれしかった。おばあさんはとても丁寧に着替えを手伝ってくれる。左のベッドのおばさんもとても親切で、私が食べた後のコップとお皿とスプーンを洗って持って行った。私はロシア語で、どうもありがとう「ボリショイ、スパシーバ」と言った。この、私の知っている数少ないロシア語の一つを、入院生活の私は何度も繰り返すこととなったのである。
夕食の時間に両側のベッドのおばあさん達が食事を運んできてくれた。私は菜食主義者ではないが、肉を食べない。左側のおばあさんが大声でジェスチャーを交えて何か私に話しかける。ロシア語で大きな声を出されると、まるで怒られているような気分になってしまう。でも、おばさんは笑っている。どうやら、全部食べないと大きくなれない、とでも言っているようだった。身振り手振りで、おばさん達は色々と話しかけてくれた。家族は何人なのか、両親は会いに来るのかなど、一つ話すのに三回以上も同じジェスチャーをしてもらって、ようやく理解できるのである。私は両手の指で数えることができるほどしかロシア語の単語を知らない。たったそれだけで対話するのには、全身で伝えなくてはならない。右の奥のベッドのおばあさんがリンゴを二つくれた。娘さんがお見舞いに持ってきたらしく、目に涙を一杯ためて手渡してくれた。そのリンゴは退院するときに大切に持って帰った。さっそく、持って行ったメモ帳でつるを折ってあげると、とても喜んでくれたのだった。
夕方、友達が五人、見舞いに来てくれた。日本のおかし等を持ってきてくれたので、皆が帰ったあと、おばさん達にあげた。とても喜んでくれて、左側のおばさんは、子供に持って帰ると大事そうにカバンに入れた。
次の日の朝、いきなり7時頃起こされた。また採血するらしい。今度は薬指を刺され、指の付け根からぎゅうぎゅうと血を採って、フイルムケースのキャップの様な物の上に溜めて、持っていってしまった。
少し眠ると、今度は9時頃起こされた。体操の時間らしく、いきなり元気良さそうなおばさんが部屋に入ってきて体操を始め、皆んなは、そのおばさんの掛け声に合わせて体操する。私も一緒に体を動かした。
おばさん達を観察していると、おもしろいことに気付く。彼女たちの大半はとても元気なのである。いったい何の病気なのか、とても知りたかった。きっと、私のように、何でもないのに入院している人もいるのだろう。
おばさん達の生活は、興味深いものがあった。例えば、窓は二重窓なのだが、その窓と窓の間に牛乳や果物などを置いて、冷蔵庫のかわりにしているなど、ロシア人の生活の知恵を見せてもらえたと思う。(2022年注記:雪国を知らない私の感想です。日本でも寒い地域は同じようになさっているのかもしれません。)
夕方、委員長のA氏と、私がホームステイした家のナターシャが来てくれた。どうやら、とても深刻だとA氏も聞かされていたらしく、心配してくれていた。それでなくても、何かと心配や不安の多い彼に、また心配事を増やしてしまったのかと思うと、とても申しわけないと思った。結局、もう担当の医者が帰ってしまったとのことで、話しができなく、私はまた一晩ここに居ることになってしまったのである。A氏が大使館に問い合わせてくれたところによると、変な病院ではないから安心していいということであった。しかし、いくら安心でも無料でもモスクワまで来て入院なんて、まったく情けなく思う。
3日目の朝、また9時頃体操をするために起こされた。その後、右の腕の内側から注射器でたくさん血を抜かれた。また違う女医さんが来て、大丈夫、と言うように、「ハラショー、ハラショー」と言うのだが、まったく退院させてくれる気配がなく、私は増々病気でもないのに病気になりそうな気分になってしまった。
つづく